私服選びのセンスが退化していく恐怖

クローゼットの服

私服選びのセンスが退化していく恐怖

平日のほとんどを作業着で過ごしていると、自分自身の外見に対する関心が驚くほど薄れていくのを感じます。朝起きてから工場を出るまで、鏡を見るのは寝癖を直す一瞬だけという日も珍しくありません。機能性だけを追求した紺色の上下と安全靴。それが私の正装であり、もはや第二の皮膚のような存在です。しかし、たまの休日や連休が巡ってくると、クローゼットの前で立ち尽くすことになります。かつて自分が何を着ていたのか、そして今、世の中の大人はどんな服を着ているのかが全く分からなくなっている自分に気づくのです。

クローゼットの中にある「数年前の自分」との再会

数ヶ月ぶりに袖を通そうと取り出した私服が、驚くほど今の自分に似合わないという現象。これには正直、背筋が寒くなるような感覚を覚えます。服自体の流行が終わっているのも一因でしょうが、それ以上に、鏡の中に映る自分の顔つきや体つきが「作業着仕様」に最適化されてしまい、街着のカジュアルな雰囲気に馴染まなくなっているのです。毎日重い荷物を運び、ベルトコンベアーの前で黙々と体を動かしているうちに、いつの間にか醸し出される雰囲気が、おしゃれなカフェや賑やかな商業施設から遠ざかってしまったのかもしれません。

かつては雑誌をめくり、季節ごとに新しい一着を探す楽しみもありましたが、今ではその情熱も枯れ果てています。どうせ誰に見せるわけでもないという諦めと、結局一番楽なのは動きやすい服だという現場思考が、私のセンスをじわじわと侵食しています。たまに思い切って買った服も、結局は作業着の延長線上にあるような、ポケットの多いカーゴパンツや無難なパーカーばかり。私のクローゼットは、気がつけば彩りを失い、実用性という名の灰色の世界に包まれてしまいました。

「何を着ても作業着に見える」という呪縛

いざ気合を入れて少し小綺麗なシャツを着てみたとしても、どこか違和感が拭えません。襟付きの服を着ているのに、どうしても頭のどこかで「これは汚してはいけないものだ」という警戒心が働き、所作がぎこちなくなってしまいます。さらに恐ろしいのは、どれほど高価な服を身にまとっても、ふとした瞬間の立ち姿や歩き方が、工場内での動きそのものになってしまっていることです。少し足を開いて踏ん張るような立ち方や、袖を無意識にまくり上げる癖など、染み付いた習慣が「私服を着た作業員」という印象を強調してしまいます。

周囲の友人たちがスマートな着こなしを楽しんでいる中で、自分だけが時代に取り残されたような感覚に陥ることもあります。彼らが語るトレンドの話は、まるで異国の言語のようです。私は機械の異音には敏感ですが、今年の流行色には全く反応できません。このままでは、冠婚葬祭以外でネクタイを締める方法すら忘れてしまうのではないかという不安が、休日の朝にふと頭をよぎります。私服選びのセンスが退化していくのは、単に流行に疎くなることではなく、社会と自分の接点が少しずつ削られていくことのような気がしてならないのです。

作業着という名の「安息地」に逃げ込む自分

結局、悩み抜いた末に私が手に取るのは、結局いつもと同じような古びたデニムとスニーカーです。誰からも注目されず、それでいて不快感のない「透明な服装」こそが、今の自分には最も似つかわしいのではないかと半ば諦めています。休日の外出先で、ショーウィンドウに映る自分の姿を見るたびに、そのあまりの垢抜けなさに苦笑いしてしまいます。しかし、その一方で、月曜日の朝に再び使い古された作業着に袖を通すとき、不思議な安堵感を覚える自分がいることも否定できません。

作業着を着ている間は、ファッションセンスなどという形のないものに悩まされる必要はありません。ここでは機能が全てであり、汚れは勲章です。しかし、その安息地にどっぷりと浸かりすぎた代償として、私は「自分を飾る方法」を失いつつあります。たまには勇気を出して、工場の外の世界に合わせた新しい一着を買いに行くべきなのでしょう。ベルトコンベアーに流されるような毎日だからこそ、せめて休日くらいは自分自身の意思で選んだ色を身にまといたい。そう思いながらも、今日も私は、洗濯されたばかりの作業着を丁寧に畳むことで、明日への準備を終えるのです。